いしだあゆみさんが76歳で亡くなった。所属事務所によると、彼女は2025年3月11日午前4時48分に甲状腺機能低下症のため東京都内の病院で息を引き取ったという。葬儀は親しい人々のみで行われる予定で、一般のファンとのお別れの会は開かれないとのことだ。 いしださんは1968年にリリースした「ブルー・ライト・ヨコハマ」で大ヒットを記録し、その後も数多くのドラマや映画に出演。特に、NHKの「北の国から」や「男はつらいよ」などでの演技が評価され、国民的女優として広く知られていた。彼女の歌声は多くの人々の心に残り、紅白歌合戦にも20回出場した実績がある。 生後2ヶ月で肺炎にかかり、ペニシリンで命を救われたいしださんは、大阪府池田市で育ち、5歳からフィギュアスケートに親しむなど、多才な一面を持っていた。1964年に歌手デビューし、1969年には芸名を「いしだあゆみ」に改名。その後も多くのシングルをリリースし、1977年には名作アルバム「アワーコネクション」を発表した。 私生活では、俳優の萩原健一さんとの関係が注目され、結婚後は一時活動を休止するが、彼の逮捕を受けて離婚を決意。その後も独身生活を送り、2019年には萩原さんの死に際して追悼コメントを発表している。 いしださんは、2024年に公開された映画「無い信じ破れざるもの」に出演し、最後の作品となった。彼女の死は多くのファンに衝撃を与え、歌手・女優としての偉業が今後も語り継がれることだろう。
女優で歌手のいしだあゆみさんが、3月11日に甲状腺機能低下症により76歳で亡くなったことが、17日に伊沢オフィスの公式サイトで発表されました。葬儀は親族のみで執り行われ、個人の意思によりお別れの会などは予定されていないとのことです。 いしださんは1948年に大阪府池田市で生まれ、フィギュアスケート選手として活躍した後、芸能界に入りました。代表曲『ブルー・ライト・ヨコハマ』は1968年にリリースされ、NHK紅白歌合戦には1969年から77年まで9年連続で出場。俳優としても数々の賞を受賞し、多彩な才能を発揮しました。 プライベートでは1980年に俳優の萩原健一さんと結婚し、4年後に離婚。二人の結婚生活は多くのメディアに取り上げられ、当時の世間の関心を集めました。離婚の理由は公には明かされていませんが、萩原さんの逮捕や私生活の問題が影響していたとされています。 いしださんの死去に対し、SNSでは悲しみの声が相次ぎ、特に『ブルー・ライト・ヨコハマ』の思い出を語る人々が多く見られました。横浜市にとってもこの曲は忘れられない存在であり、地域の象徴的な歌となっています。 彼女の死は多くの人々に衝撃を与え、今なおその影響力を感じる人が多いことを示しています。いしだあゆみさんは、時代を超えた名曲とともに、多くのファンの心に永遠に生き続けることでしょう。
歌手で俳優のいしだあゆみさんが76歳で亡くなったことが報じられ、ファンや関係者に衝撃を与えています。彼女は3月11日午前4時48分、東京都内の病院で甲状腺機能低下症のため息を引き取ったとされています。葬儀は家族のみで行われ、お別れの会は本人の意思により行わないとのことです。所属事務所は「これまで応援していただいた皆様に感謝いたします」とのコメントを発表しました。 いしださんは1968年にリリースした名曲『ブルー・ライト・ヨコハマ』で広く知られ、150万枚以上の売上を記録しました。この曲は多くの人々に愛され続け、2008年には横浜開校150周年を記念するアンケートで堂々の第1位に選出されました。また、女優としても輝かしいキャリアを持ち、1977年には映画『青春の門 自立編』で放送映画賞助演女優賞を受賞しました。 彼女の私生活は波乱に満ちており、特に元夫である萩原健一さんとの関係は多くのメディアに取り上げられました。二人は1977年に共演をきっかけに交際を始め、1980年に結婚しましたが、萩原さんの逮捕や離婚後の波乱が続きました。いしださんはその後、再婚に関する噂もありましたが、実際には独身を貫いたとされています。 近年は健康状態が心配され、激痩せが報じられましたが、実際には深刻な病気ではなく、過去の生活習慣が影響していたとされています。彼女は特異な生活スタイルを持ち、物を最小限に減らすミニマリズムを実践していました。 いしだあゆみさんの人生は、数々の成功と同時に、多くの困難を経験したものでした。彼女の残した音楽や作品は、これからも多くの人々に愛され続けることでしょう。改めて、いしだあゆみさんのご冥福をお祈り申し上げます。